千二百年の歴史をもつ京都には、修学旅行の機会にぜひ見ていただきたい社寺や見学地がたくさんあります。この連載ではそのなかから、普段はあまり訪れることのない地域、あるいはこれまでとは異なった「視点」について紹介してゆこうと考えています。

橋本初子(はしもと・はつこ)
●京都精華大学人文学部教授
◎京都市内の寺院に伝わる古文書(こもんじょ)を調査して、いにしえの京都を再現する研究に従事。
◎著書に『中世東寺と弘法大師信仰』(思文閣出版)。


醍醐時周辺 編
 第一回は、地下鉄東西線の開通で便利になった醍醐寺周辺をご紹介しましょう。
 京都の東南、近江から京・奈良へ通じる古代の道奈良街道沿いに、醍醐(だいご)という、仏教の言葉では「乳酪」(ヨーグルト)の意味をもつ地域があります(醍醐味という言葉はここからきています)。このあたりは醍醐寺・随心院・勧修寺という、日本の仏教史に登場する大きな寺院がその歴史を伝えますが、この寺院を尋ねて歩く道々は、京都の街なかではとうてい味わうことのできない、古代の京の面影が残っているところです。ここを訪れる欧米人は、どこへカメラを向けても電柱が入らない、ビルの影が見えない、あたり一面平安時代のまま……といって喜びます。

 醍醐寺(真言宗醍醐派総本山)は、笠取山の山上山下に多くの堂舎が建ち並び、山上を上醍醐、山下を下醍醐といいます。聖宝(しょうぼう)が、山上に准胝(じゅんてい)・如意輪の両観音像を安置したことが醍醐寺の歴史の第一ページですが、この准胝観音への信仰は現代まで続き、西国三十三札所の第十一番目札所となっています。参詣する人々は、開山以来湧き出ている「醍醐水」(だいごすい)を汲みます。
 山上山下ともに平安時代に建てられた堂舎は、応仁の乱によって五重塔以外はことごとく焼亡したので、そのとき焼け残った五重塔は、京都で最古の木造建造物として注目をあびています。これらの堂舎は、慶長年間に秀吉・秀頼親子の援助によって再建され、特に三宝院は、再建の際に公家の寝殿造(しんでんづくり)と武家の書院造とを折衷した桃山時代の住宅建築として有名です。

 秀吉が慶長三年三月に催した「醍醐の花見」はよく知られていますが、そのときの名残が三宝院の庭園です。庭園は秀吉自ら設計施工し、京中の聚楽第より「藤戸石」(ふじといし)を運び、伏見城から茶室を移しました。また、花見のときの御殿は、現在、庭園の一角に移されており、「純浄観」(じゅんじょうかん)という民家風の外観と書院風の内部をもつ建物が公開されています。

 山上へ登る道には、鎌倉時代の卒塔婆形(そとばがたち)の「町石」(ちょういし)が、一町ごとに建っています。登り道は険しく、醍醐寺が現在も当山派修験道(とうざんはしゅけんどう)の本拠であることを改めて考えさせられます。山上からは、はるか大阪まで淀川水系が遠望されます。
 随心院は醍醐寺の北側にあり、真言宗小野派の大本山、随心院門跡とか小野御殿といいます。近頃でも、天候不順で雨が降らないと、各地で雨乞いをしますが、この随心院を開いた仁海(にんかい)は、雨乞の修法に験(しるし)をあらわし、雨の僧正と呼ばれました。仁海は、この辺の古代豪族宮道氏(みやじし)の出身ですが、仁海の亡母が牛に生まれ変わっていることを夢にみました。その牛を探し求めて飼い、牛が死んだとき、その皮に両界曼荼羅を描いて菩提を弔ったので、この寺は牛皮山曼荼羅寺ともいいます。

 随心院が小野小町の住宅跡であったという伝説から、小町に関する言い伝えが内外にみられ、小町地蔵・小町の化粧橋(けしょうばし)・化粧井戸(けしょういど)があります。また、別名を「文塚」(ふみづか)という小町塚は、美人小町に寄せられたラブレターを埋めたといいます。
 また寺の近く、勧修寺へ通じる道端に、大きな「栢(かや)の樹」があります。これは深草小将と小町がデートするたびごとに、その回数をこの実で数えたといわれています。小将の死後、小町はその実を邸内に植えたので、随心院の近辺(小野)には、栢の木が多いのです。随心院の建物も醍醐寺と同様に応仁の乱で焼け、現在の本堂は慶長四年の再建、また書院は徳川秀忠夫人の寄進になるものです。

 随心院よりさらに西へ歩くと勧修寺があります。醍醐天皇が、生母藤原胤子(ふじわらたねこ)の菩提を弔うため、宮道氏の居宅を仏寺に改めたのが歴史のはじまりです。真言宗山階派(やましなは)の大本山、勧修寺門跡といい、本尊は千手観音。代々法親王(出家した皇子)が、三十余代続いて入寺しました。昔の広い寺域は、応仁の乱によって焼失したうえ、秀吉の伏見城築城のために寺域を縮小させられました。しかし、天和二年に霊元天皇皇子済深法親王が入寺し、現在のようになりました。庭園も、江戸時代中頃に、古図によって昔の庭園様式に再現されたもので、水戸光圀が寄進したといわれる笠をかぶったような「勧修寺形燈籠」で知られています。白い築地塀の続く勧修寺のたたずまいには平安時代の雰囲気があります。