![]() 三条〜四条周辺 編 第三回は京の繁華街 三条から 四条周辺を歩いてみましょう。 京の三条大橋は、江戸時代に定められた東海道五十三次の西の終点でした。天正18年(1590)に、豊臣秀吉によってこの橋が架けられてから、京の表玄関として、京へ訪れた人々は皆、この橋を渡りました。現在、地下鉄東西線が、京中の西(JR二条駅)と東(伏見醍醐)の間を走っていますが、その中間地点が、三条大橋東詰の三条京阪駅です。ここから京阪電車によって大阪へつながっていますので、この橋は、京の街の要(かなめ)といえましょう。橋の下は、洛北の貴船(きぶね)を水源とする鴨川(かもがわ)です。京の街へ向かって橋を渡りながら見渡す景観は、東山の山々、比叡山、鴨川のひろがり、まさに山紫水明の京都です。
三条大橋を渡りきると、すぐ三条小橋があります。この小橋の下は、高瀬川(たかせがわ)の流れです。この川の水は、鴨川の流れをとり入れていますが、自然の川ではなく運河です。慶長16年(1611)から二年がかりで、当時、土木技術者として、また材木商として活躍していた角倉了以(すみのくらりょうい)によって、総工費七万五千両(現在の約150億円に相当)をかけて開かれました。この運河の出発点は二条通が鴨川につきあたったところ、終点は大阪へ通じる淀川畔の伏見(ふしみ)の港、全長約10キロに及びます。
明治の文豪森鴎外(もりおうがい)の小説「高瀬舟(たかせぶね)」は、この高瀬川が舞台ですが、江戸時代には、他国から穀物・薪・炭・材木・食料品など、この水流を「たかせぶね」に積んで運んできました。二条の「一(いち)の舟入(ふない)り」(出発点)に行きますと、昔の舟荷を再現しています。そして、現在の日本銀行京都支店のところに、角倉屋敷がありました。そのすぐ近くには、島津記念館がありますが、あの島津氏も商売の拠点にしたのです。近くの鴨川の土手に出ますと、水源がみられます。この高瀬川の東側に木屋町(きやまち)があり、西へすこし行くと河原町(かわらまち)に出られますが、江戸時代には高瀬川によって物資が運ばれ、人々の出入りが盛んであった河原町の東側には、各藩の大名屋敷がありました。たとえば長州藩(ちょうしゅうはん)屋敷<現在の京都ホテル>や対馬藩(つしまはん)屋敷<現在のロイヤルホテル>などです。そして、木屋町には旅籠(はたご)<旅館>が軒をつらね、油屋・酒屋・米屋などの商人が店を構えていました。
あの坂本龍馬(さかもとりょうま)は酢屋(すや)の2階に下宿していたのです。この酢屋は、昔そのままの面影をみせています。さらに三条小橋の北側には、近藤勇(こんどういさみ)ら新選組(しんせんぐみ)が、長州(ちょうしゅう)・土佐藩士(とさはんし)を急襲(きゅうしゅう)した池田屋(いけだや)のあと、月形半平太(つきがたはんぺいた)(武市瑞山)(たけちずいさん)の住居あと<現在料理屋金茶寮(きんさりょう)>もあります。
このように高瀬川のほとり木屋町、河原町には、あちこちに幕末の京都の歴史に登場した尊皇攘夷反幕(そんのうじょういはんばく)の志士たちの居所や遭難の地を示した石碑が立っています。高瀬川の絵地図が、四条通にかかる手前の旧立誠(りっせい)小学校校門前にかかっていますが、この小学校の場所は土佐藩屋敷のあったところです。ここから河原町をへだてた向い側に、醤油屋の近江(おうみ)屋址があります。この場所こそ坂本龍馬が中岡慎太郎(しんたろう)と共に京都見廻組(みまわりぐみ)に襲われて、慶応3年(1862)に命を落としたところです。時間をかけて、先人がたてた石碑を巡り、京都の幕末を知ると同時に、現在の京都市内一番の盛り場河原町で遊ぶこともできる旅のスポットを紹介しました。
|