修学旅行生でいっぱいの清水寺から清水坂を下り、東大路通りを越えたあたりが六波羅。人気観光地・清水寺の陰に隠れ、ひっそりとたたずむこの辺りは、ある意味で本当の京都に出あえる町だ。観光対象ではなく信仰の対象としての社寺、その境内でかくれんぼをして遊ぶ子どもたち、などなど。のんびり歩けば、京都の庶民の生活に身近にふれることができるだろう。

 松原通りを東大路から西へ歩くと六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)がある。この辺りは六道の辻(ろくどうのつじ)と呼ばれる。六道というのは仏教用語で、人間は天界・人界・畜生・修羅・餓鬼・地獄の六つの世界を生まれ変わる存在であるという考えで、ここはその辻、すなわち、あの世とこの世の境目にあたるところ。普段はのんびりとしたこの界隈が毎年8月7〜10日の4日間は身動きできないほどの人で埋まる。お盆のお精霊(しょうらい)さん迎えの行事・六道まいりで、亡き人が年一回ここを通って各家々に帰っていく。六道珍皇寺にある鐘はあの世まで聞こえるそうで、この音をきくと霊たちがソワソワしだし、そろそろ帰省のシーズンだなと知るらしい。
 六波羅から東は、その昔鳥辺野(とりべの)と呼ばれる葬送の地だったから、この辺りはその墓場への入り口だった(墓場といってもちゃんとした墓石があるわけでなく、ほとんどは野ざらしの死体置き場だったらしいが)。京の人々にとっては、文字どおりあの世への入り口だったわけだ。珍皇寺の本堂の裏にはあの世とこの世を自由に行き来した小野篁(おののたかむら)があの世へ通ったといわれる井戸がある。

 少しわかりにくいが、有名な「幽霊子育て飴」を売る店がある。毎夜毎夜女性が飴を買いに来る。後で気づくとお金は葉っぱに。ある夜あとをつけると墓地に消え、墓の下から赤ん坊の泣き声が聞こえる。死んだ妊婦の墓の中で赤ん坊が飴を食べて育っていたという話。以来幽霊飴は名物になった。かつてはお盆のときだけだったが、今ではいつでも売っている。
 さらに西へ。T字路の角にある西福寺(さいふくじ)ではお盆の時期に六道の地獄絵を展示。ミステリアスなムードをさらに盛り上げる。
 T字路を松原通りから南へちょっとそれたところにあるのが、六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)。空也上人の開基で、口から六体の阿弥陀如来が出ている念仏姿の空也上人像がある。このあたりは平家全盛のころ、一門の邸宅が5200余もひしめいており、平氏六波羅第と呼ばれた。また鎌倉時代には幕府の朝廷監視機構である六波羅探題(ろくはらたんだい)が置かれた。
 今は庶民的で地味な町なみがひろがる六波羅の地が、かつては日本史の中心となったとは想像もつかないが、現在も残る地名がこれらの歴史を今に伝えている。


六波羅の地名の由来

 六波羅は北は建仁寺より南は五条通りまで、西は鴨川より東は東大路に至る東西700メートル、南北350メートルの地域をいう。もとは六原とかき、鳥辺野と同一地域をいい、その名の起こりは、霊の多く集まるところに因る。すなわち六の「ろく」は霊の古語で、「六」の字を当てたのは、六の訓「む」が墓地に関係ある語とされたからである。墓所(むしょ)がなまって六所となったごとく、霊の多く集まる原野ということから六原の名が付いた。
六道珍皇寺

 延暦年間、慶俊僧都の開基で、ついで空海が興隆させて東寺を本寺とし、小野篁が施主となって堂塔伽藍を整備した。南北朝時代には衰退したが、建仁寺により再興され臨済宗に改宗した。本尊は薬師如来座像で、最澄の作と伝えられる。境内の東側にある閻魔堂には、小野篁と閻魔大王の木造を安置。閻魔大王像は、小野篁の作といわれる。小野篁像は約190cmで実物大といわれる。小野篁は地獄の閻魔大王に仕える第二の冥官だったといわれ、本堂の裏にある井戸から地獄へ通っていたらしい。ちなみに帰りは上嵯峨の大覚寺前の六道町あたりだっといわれ、六波羅の「死の六道」に対し、こちらは「生の六道」いわれる(六道珍皇寺の境内にも冥土から帰るときに使ったとされる「黄泉がえりの井戸」がある)。
六道まいり

 有名な大文字送り火はお盆に帰ってきた先祖の霊をあの世へ送る行事なのに対し、これはあの世から先祖の霊をお迎えする行事である。8月の7〜10日の4日間、珍皇寺の鐘をついて精霊を迎え、高野槙の枝を持ち帰って仏壇にそなえる習わしがある。これは精霊が槙の葉に集まって家へ帰るという信仰があるため。
鳥辺野

 六原(六波羅)が葬送の地となったのは、桓武天皇が平安遷都にあたって葬所とされ、珍皇寺を建てたのがはじまりといわれる。この葬場は主に、一般庶民の遺骸を葬るところとし、王后貴族はもっぱら南鳥辺野が選ばれた。珍皇寺はこの葬場の管理をする寺で、はじめは愛宕寺と称した。この寺領内には、僧俗を問わず多くの人々によって仏堂が造立された。空也上人もその一人で、空也上人がこの地を選んだのは、ここが庶民の葬場だったからだろう。
小野篁

 嵯峨天皇に仕えた平安初期の政治家で、学者・歌人としても知られる。閻魔王宮の役人といわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁に勤めていたといわれる。平安の当時、閻魔大王に仕えている篁に出会ったと証言する人が何人かいたらしい。
 最初は西三条の大臣、藤原良相(ふじわらのよしみ)である。篁がまだ学生だったころある事件で処罰されかけたとき、この大臣が助けたことがあった。のちに大臣が病で死んで、生前の裁きを受けるために閻魔大王の前に出たとき、篁の口添えのおかげで、この世に戻ることができた。後日、あの世でのおぼろげな記憶を篁に確かめると、篁は「あれは恩返しです。決して口外されませんように」と答えた。大臣は篁を畏れ敬った。
 第二は篁の舅の藤原三守(ふじわらのただもり)である。やはり病で死んで閻魔大王に断罪されようとしたとき、大臣の傍らにいた冥官のとりなしにより、大般若経を3年以内に書写することを約束してこの世へ戻ることを許された。ところが約束の3年が過ぎようとしているのに多忙を理由に写経を遅らせていた。そんな舅に篁は「あのときの約束をお忘れか」と叱った。そのこわい顔が冥土で助けてくれたあの顔そっくりだったので、あれは本当のことだったのかと、急いで約束を果たした。三守の口からも篁のことが他に漏れた。
 また、大和金剛山寺の開山満米上人が、閻魔大王に招かれてあの世を訪問した際、ガイドをつとめたのが篁だったと、上人の見聞記「矢田地蔵縁起」は伝えている。
西福寺

 空海が当地に辻堂を建て、自作の地蔵尊をまつったのが寺の起こり。この地蔵は六波羅地蔵といい、檀林皇后(嵯峨天皇の皇后)が皇子正良親王(仁明天皇)の病気平癒を祈願して以来、子育て地蔵としても信仰されている。
六波羅蜜寺

 天暦5年(951)京の都に疫病が流行したとき、空也上人は自ら十一面観音像をつくり、車に乗せ市中を回り、仏前に献じた茶を病人に授け念仏を唱えると、たちまち悪疫がやんだという。また上人は、10余年の歳月と多くの人々の協力によって、紺紙に金泥で書いた大般若経六百巻の書写を行った。このときに建立した寺を、西方浄土の教えを京都の内外に伝えようと西光寺と称したのが起こり。西光寺は一般には「六原の寺」とよばれた。のちに弟子の中信が仏語の六波羅蜜をあてて六波羅蜜寺とあらためた。
 西国三十三カ所観音霊場の第十七番札所として、古くから信仰され、今では多くの仏像彫刻を有し、美術史上貴重な存在となっている。念仏を唱えている尊像の口から、南無阿弥陀仏の六文字を表す六体の阿弥陀があらわれている姿が印象的な空也上人像は教科書でもおなじみ。
 上人が悪疫退散のため小梅干と結昆布を入れて衆生に与えたお茶は、現在でも皇服茶として正月三が日の間に授与される。
平氏六波羅第

 平氏一族が六波羅の一帯に築いた邸宅群の総称。平正盛が六道珍皇寺から借地して邸宅を営んだのが始まり。忠盛を経て清盛時代には大集落を形成し、清盛は六波羅入道とも呼ばれた。平家の都落ちに際して焼かれ、のち鎌倉幕府がここに六波羅探題を置いた。
六波羅探題

 鎌倉幕府が京都に設けた出先機関。鴨川の東、松原通りから七条にかけての地にあった。当初は六波羅守護、六波羅南方(南殿)・北方(北殿)などと呼ばれた。承久の乱(1221年)で幕府軍を率いて上洛した北条泰時・時房がそのまま都にとどまり、戦後の処理にあたったのに始まる。任務は朝廷の監視、反幕分子の抑圧と警察機構の行使、九州を除く西日本の統轄だった。
現在も残る地名

 「轆轤町(ろくろちょう)」のあたりは、かつて人間の骨が無数に出てきたことから髑髏(どくろ)町と呼ばれていたのを、江戸時代に板倉所司代が町名を変更させた。「池殿町(いけどのちょう)」の名は平頼盛邸の通称“池殿”からついた。「門脇町(かどわきちょう)」の名は平教盛が住んでいた邸宅が六波羅の惣門の角にあったので門脇宰相と呼ばれたことから、「三盛町(みつもりちょう)」の名はこの地に屋敷を構えていた平氏一門のうち、清盛・頼盛・教盛の三兄弟からついた。