攘夷か開国かで日本中が大きく揺れていた江戸時代末期、最後の将軍として登場し、”徳川家康の再来”として倒幕派から一目置かれた第十五代将軍・徳川慶喜が、京都に残した歴史の数々をたどる。
徳川慶喜
 15代将軍・慶喜は水戸の徳川斉昭(なりあき)の七男として江戸の水戸藩邸で生まれた。しかし、江戸のような華美な都会では男子はたくましく育たないという父・斉昭の教育方針で、幼少のころから水戸に移され育てられた。そして5歳のときから水戸の弘道館で徹底的な英才教育をほどこされ、弘化4年(1847)、11歳のとき、八代将軍・吉宗の血をひく一橋(ひとつばし)家の養子となった。19歳のとき、2歳年上の有栖川宮(ありすがわのみや)の娘美賀(みか)と結婚。黒船の来航以降、尊皇攘夷の嵐が吹き荒れ、政治の中心が京都に移り、慶喜は将軍後見職、禁裏御守衛総督を歴任した。慶応2年の第二次長州征伐の間、7月、家茂が急死したので徳川家を継ぎ、12月、第15第将軍の座についた。そしてさまざまな政治的困難を乗り越えたが、慶喜は政治情勢を考え、大政奉還をなし遂げた。維新後は明治35(1902)年、公爵を授けられ、大正2年、77歳で没した。



東本願寺
 慶長7(1602)年、徳川家康は、教如上人に東六条の四町四方の寺地を寄進した。これによって東本願寺が創建されたので、東本願寺は徳川家ゆかりの寺となった。第14代将軍家茂(いえもち)の後見職に任ぜられた慶喜は、文久3(1863)年1月5日、将軍の上洛の準備のため入京し、ここを宿舎として京都での活動を開始した。


若狭小浜藩邸跡
 文久3(1863)年12月21日、入洛してから宿舎としていた東本願寺より、空き家になっていた小浜藩酒井家邸に移った。政務は二条城で行われていたので、城に近いこの屋敷が選ばれたのである。慶喜はここへ有力な諸侯を呼んで、さまざまな問題を協議していた。これが後見邸会議、のちの参豫(預・与)会議である。そのメンバーは、越前の松平慶永、会津藩主の松平容保、土佐の山内豊信、宇和島の伊達宗城、薩摩の島津久光などだった。藩邸の遺構は現在まったく残っていない。


賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)
 賀茂神社は山城の国の一の宮。上賀茂神社は正式には「賀茂別雷(かもわけいかずち)神社」と呼び、祭神は賀茂別雷神。下鴨神社は「賀茂御祖(かもみおや)神社」で、祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と玉依姫命(たまよりひめのみこと)。攘夷派は、孝明天皇の攘夷祈願のための賀茂神社・石清水八幡宮行幸に供奉(ぐぶ)させることで、将軍家茂を攘夷断行に踏み切らせようと計画。文久3(1863)年3月11日、賀茂神社行幸が実施され、家茂と慶喜はやむなくこれに供奉(ぐぶ)した。


二条城
 二条城は将軍上洛時の居館として建設され、14代将軍家茂は2度の上洛時にここに滞在した。慶喜が将軍の任命を受けたのも、そして、大政奉還を行ったのもこの城。慶応2(1866)年12月5日、慶喜は二条城で15代将軍に就任。翌年の9月21日、若狭小浜藩邸から二条城に移り、同年12月12日までここに住んだ。10月13日には、慶喜は城内二の丸御殿大広間に、十万石以上の藩の代表40名を召集し、老中板倉勝静より大政奉還の上奏案を提示させた。大半の代表が賛意を表明したため、翌14日政権返還の上表文を朝廷に提出、朝廷では15日に会議を開いて、慶喜の申し出を受けると返答した。ここに260年にわたる徳川幕府の終焉が決定的となった。


京都御所
 文久3(1863)年の上洛後まもなく孝明天皇に拝謁して以来、参豫(さんよ)となって朝議に列したり兵庫開港を上奏したりと、慶喜はしばしば参内した。また元治元(1864)年3月25日には禁裏守護総督に任じられ、同年7月19日の禁門の変で活躍をした。


蛤御門
 8月18日の政変により京から追い出された長州勢は、翌元治元(1864)年7月19日、兵を挙げて御所に押し寄せ、蛤御門を警護する会津藩と交戦、禁門の変を起こした。長州挙兵の報を聞いた慶喜は参内氏し、幕府と諸藩の軍を指揮して長州藩と戦い、御所を守った。慶喜にとって生涯でただ一度陣頭指揮をとった戦いだった。


淀城跡
 明治元(1868)年1月2日、旧幕府軍はここに本営を置いた。よく翌日夕刻、鳥羽・伏見の両方面で戦端が開かれ、以後5日まで激しい戦闘が各所で繰り広げられ、薩長軍の勝利に終わる。旧幕府軍敗走の報は大坂城の慶喜にも伝えられた。


石清水八幡宮
 文久3(1863)年4月11日、孝明天皇は攘夷祈願のため、前月の賀茂神社に続き石清水八幡宮行幸に出発した。将軍家茂をふたたびこれに同行させ、天皇が攘夷祈願をした後で将軍に攘夷の節刀を与えるというシナリオだったが、家茂が急病のため慶喜が名代として供奉した。いったん石清水山麓の坊に入り、参拝は夜行われることになったが、慶喜は腹痛を訴え、結局社頭には上がらなかった。