ヨシツネをさがせ!
 源義経は12世紀の半ばに京都で生まれ、人生の大半をここで過ごしたため、市内には義経ゆかりの場所が多くあります。修学旅行で行くコースのなかにもきっとあるはず。散策や見学の合間に、そんな場所を見つけられたら旅の楽しさも倍増! さあ、ヨシツネをさがせ!!

義経ゆかりの場所義経ってどんな人?

京都市内マップ
義経ゆかりの場所
うしわかまるたんじょうい・えなづか   みなもとのよしつねうぶゆのいいし   こうねんじ・はらおびじぞう
牛若丸(義経の幼名)が産湯をつかったといわれる井戸の跡。へその緒と胎盤を埋めたという伝説もあります。
〔住所〕北区紫竹牛若町
  誕生井・胞衣塚の近くにあり、義経誕生の場所とされます。
〔住所〕北区紫竹牛若町
  住宅街のなかにひっそりとあるので、見つけにくいかもしれません。義経の母・常盤御前が牛若丸の安産を祈願して寄進した腹帯地蔵があります。
〔住所〕北区紫野上野町
〔電話〕075-491-0310
       
ときわい   かどではちまんぐう   しんせんえん
義経の母・常盤御前が使った井戸とされています。「井」とありますが井戸のあとだけが残っています。
〔住所〕北区紫野下築山町
  義経が東北地方へ旅に出るときに、安全を祈願して出立したといわれ、出発を意味する首途(かどで)と呼ばれるようになったと伝えられています。
〔住所〕上京区智恵光院通今出川上ル桜井町102-1
〔電話〕075-431-0977
  義経と静御前の出会いの場所といわれています。出会いの日、静御前は後白河法皇の命により雨乞いの舞を奉納したそうです。
〔住所〕中京区御池通神泉苑町東入る門前町167
       
べんけいいし   さめがい の せきひ   ごじょうてんじんしゃ
ビルの1階部分にあります。弁慶が愛でていた石。弁慶の最期となった奥州高館に運ばれたが、石が「三条京極に行きたい」と言ったため送り返されたといわれています。。
〔住所〕中京区三条通麩屋町東入ル弁慶石町
  義経が屋敷を建てて住んでいたことがあり、京都の三名水とよばれた「左女牛井」が湧いていました。京都東急ホテル横に碑が建っています。
〔住所〕下京区堀川通五条下ル
  こちらも義経と家臣・弁慶が出会った場所といわれています。松原橋で出会ったのか、それとも五条天神社が初対面の場所なのか、定かではありません。
〔住所〕下京区松原通西洞院西入ル
〔電話〕075-351-7021
       
まつばらばし   うしわかまる・べんけいぞう   きよみずでら
義経と家臣・弁慶が出会った場所とされます。現在、松原橋がある場所には、当時は五条大橋がありました。現在の五条大橋とは別の位置なので、注意してください。
〔住所〕下京区美濃屋町
  五条大橋西詰めに義経と弁慶が出会った状景を模した京人形(御所人形)ふうの2体の石像があります。
〔住所〕下京区五条大橋西詰
  初対面で決闘をした日は決着がつかなかったので、翌日改めて清水寺で闘った結果義経が勝利し、その才能に惚れ込んで弁慶は一生の家臣になったといいます。
〔住所〕東山区清水1
〔電話〕075-551-1234
       
こやす の とう   べんけい の てつしゃくじょう・てつたかげた   よしつねだいにちにょらい
清水寺のなかにある檜皮葺の塔で、ここにある千手子安観音を常盤御前が信仰していたといわれます。
〔住所〕東山区清水1(清水寺内)
  こちらも清水寺のなかにあります。弁慶が持ち歩いていたといわれる鉄錫杖は重さなんと90kg、履いていたといわれる下駄は12kg(片足)もあります。女性がこの下駄をさわると夫や彼氏の浮気防止になるそうです。Let's try!
〔住所〕東山区清水1(清水寺内)
  蹴上インクライン疎水公園内にある石仏。平家の武士の馬が泥を蹴り上げて、義経の衣にかかったことから立腹した義経が、武士を一度に9人も倒し、あとで供養のために建てたといわれています。泥を蹴り上げたことから、「蹴上(けあげ)」という地名ができたとも(地下鉄の駅名も「蹴上」です)。
〔住所〕東山区蹴上インクライン疎水公園
       
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1159-1189(平治元-文治5)
平安時代後期に活躍した武将。父の源義朝みなもとのよしともが平治の乱を起こしたことで殺害され、母の常盤御前ときわごぜんとともに捕らえられましたが、許されて京都・鞍馬寺に送られ、少年時代を過ごしました。ここでの修行のおかげで屈強な武将に成長し、平家の討伐に活躍しました。鎌倉幕府を興した源頼朝みなもとのよりともは兄(異母兄弟)で、ともに新しい幕府をつくるため尽力しました。しかし弟の活躍を頼朝がだんだんよく思わなくなり、義経は攻撃され東北まで逃げてゆきます。 頼朝の圧力で奥州藤原氏おうしゅうふじわらし・藤原泰平ふじわらのやすひらの襲撃を受け、義経は自害し、薄幸の生涯を終えました。わずか31歳でした。
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?-1189(?-文治5)
平安時代後期の僧で、義経の生涯無二の家臣です。戦いのときも、追手から逃げるときも義経を助けた縁の下の力持ちで、「平家物語」をはじめ物語・伝記などでは強兵として語られています。生まれたときから3歳くらいの体つきで歯や髪が生えそろっていたといわれ、たぐいまれな大男だったようです。お寺の鐘を一人で引き回したり、大きな石をはるか遠くまで投げたという伝説もあり、東北で襲撃されたときに義経をかばって大きな体に矢を何本も受けながら、立ったまま死んだといわれています。
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1123-60(保安4-平治2)
義経や頼朝の父。鎌倉を拠点に活躍した武将。1156(保元1)年の保元の乱では、平清盛とともに後白河天皇の陣営に加わり、敵方についた父・為義をはじめ源氏の一族を倒しました。昇格しますが、清盛の勢威に及ばないことが不満で、1159(平治1)年に平治の乱を起こします。しかし、敗れ、東国に逃れようとする途中で殺害されました。義朝が築いた地盤は、嫡子・頼朝が鎌倉幕府成立への礎になったとされます。
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生没年不詳
義経の母。近衛天皇に嫁いだ九条院の世話係(雑仕)をしていましたが、その美しさが義経の父・義朝の目にとまり側室となりました。しかし平治の乱で義朝は殺され、家族を守るために平清盛に許しを請い、清盛の側室に。その後一条大蔵卿藤原長成いちじょうおおくらきょうふじわらながなりと再婚したといわれています。
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生没年不詳
平安後期の白拍子しらびょうし=歌舞を仕事とする舞女)。義経が愛した女性で、京都での生活を共にしました。義経が兄・頼朝の追手から逃げるときに離ればなれとなり、一人捕らえられ鎌倉へ連れて行かれます。釈放されて京都へ帰りますが、その後の消息はよく分かっていません。